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関ヶ原の決断を一生後悔し続けた福島正則

真田一族とは対照的な例として、福島正則を考えてみたいと思います。この武将は、関ヶ原の戦いで東軍に味方したことを、一生後悔し続けました。挙句の果てに、改易されて 不遇なままに生涯を閉じることとなりました。

福島正則は、永禄4年(1561年)、尾張で生まれました。豊臣秀吉とは母方の親類にあたるため、少年期から秀吉の数少ない子飼いとして活躍。本能寺の変のあとは、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで功名を挙げ、一気に5千石取りへと出世しました。その後も功名を上げ続け、尾張・清州24万石の大名となりました。

秀吉子飼いの大名たちは、おね(北政所)と頂点とする尾張・武断派と、茶々(淀殿)を頂点とする近江・文治派との対立が、朝鮮の役の頃から表面化しつつありました。

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、対立は一気に火を噴きます。福島正則ら七将が、石田三成を襲撃するという事件を引き起こしたのです。この時は、徳川家康が仲裁することで一旦は収まりましたが、対立の火種は依然くすぶり続けたままでした。

慶長5年(1600年)5月、関ヶ原の戦いの導火線となる会津・上杉景勝討伐の軍が編成されます。徳川家康を総大将に、福島正則も従軍します。ところが、7月に石田三成が上方で挙兵したという報せが入り、家康は下野・小山で軍議を開きます。このまま家康の東軍に付いて、石田三成の西軍と戦うか。それとも、三成に味方して家康と戦うか。どの大名も、大きな決断を迫られました。この時の正則は、積極的に家康を支持しました。「この戦いは、豊臣対徳川の戦いでは無い。豊臣家を私しようとする石田三成を討つのが目的だ。」家康の言葉を信じ、三成憎しの感情が燃えたぎる正則は、軍議の場でいち早く家康に味方することを表明しただけでなく、東軍の先陣として岐阜城を陥落させ、関ヶ原の当日も、第一線に立って奮戦しました。その結果、安芸・広島49万8千石という大幅な加増を獲得したのです。このときの正則は、さぞ得意の絶頂感を味わっていたことでしょう。自分の決断に、間違いはなかったのだと。

ところが、その後慶長8年(1603年)に家康は征夷大将軍に任じられて幕府を江戸で開きます。その2年後には、将軍職を息子・秀忠に譲り、自らが天下人としての地位を固めてゆくのです。その結果、豊臣家はだんだんと追い詰められてゆくのです。正則にしてみれば、自分が東軍に味方したのは徳川家に天下を取らせるつもりは全くなかった、ということでしょう。このあたりから、正則は激しく後悔し始めます。幕府からの城普請の手伝い要請があまりにも多くて、財政が苦しいと。幼馴染の加藤清正に愚痴をこぼしてたしなめられる、ということもありました。

挙句の果てには、慶長20年の大坂夏の陣で、豊臣家は滅亡します。幕府は、正則が豊臣方に付くのを警戒して、江戸詰めを命じます。その一方で、福島家では豊臣方に兵糧を隠れて提供したり、福島家の家臣たちが大坂城に入ろうとして徳川方に打ち取られる、という事件もありました。正則の「せめてもの抵抗」だったのかもしれません。

家康死後まもなくの元和3年(1619年)、広島を台風が襲います。この水害で広島城が損壊、正則は修理することを幕府に届け出ます。
ところが、この届けを巡って幕府が「些細なケチ」を付け、城を無断で修理したのは武家諸法度に違反するということで、正則は広島を改易されます。信濃・川中島4万5千石に減転封され、その後はその所領も没収。福島家は3千石の旗本として存続を許されました。

関ヶ原の戦いは、福島正則が東軍の先頭に立って戦い、勝利をもたらした功績が大でありました。でもその決断は、徳川家のもとで天下を安定させることや、豊臣家のためには家康と三成のどちらの言い分が適切なのかを判断したとは到底思えません。三成憎し!の感情が先走っての決断でした。

たとえ大出世したとしても、自分が何よりも大切に考えていた豊臣家が滅んでしまっては、正則にとっては全く意味がありません。自分は、本当のところは何を一番大切だと考えているのか?
この問いにきちんと向き合えなかったからこその悲劇を、正則に見るのです。

 

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高島 徹
Editor
株式会社決断力 代表取締役・決断力プロデューサー
高島徹(たかしま・とおる)
高島徹(たかしま・とおる) プロフィール >
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